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高松高等裁判所 昭和45年(う)144号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、記録に綴つてある弁護人徳弘寿男作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は高松高等検察庁検察官検事島岡寛三作成の答弁書に記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

一  控訴趣意第一点は事実誤認の主張であつて、被告人は本件一連の殺人及び傷害の犯人ではない、というのである。しかしながら原審で取調べた関係証拠を総合すると、被告人が昭和四四年一月四日午前零時二〇分ころ、原判示田城清明宅一階茶の間、奥六畳間及び玄関において、判示鉄棒で岡村正幸ほか六名の各頭部を次次に殴打し、よつて原判示のとおり五名を死亡させ、他の二名に各重傷を負わせたことが認められ、かつ犯行に使用した鉄棒の性状及び被害者に負わせた傷害の部位、程度に徴して、被告人に殺意があつたことが十分に認められる。当審における事実取調べの結果によつても、右認定は動かない。すなわち

被害者の一人である上甲笑(田城清明の長女)のほか、犯行の当初に、その現場の田城宅茶の間に居合わせた当主の清明、及び犯行の前半まで同家の二階にいて、階下の人声等を聞いた成子、葉子姉妹らはいずれも被告人と十分な面識があつて、他人を被告人であると取り違える筈もなく、また被害者岡村正幸も同じ小、中学校に被告人と同じころ在学し(但し、被告人の方が二年先輩)、被告人の面貌等を記憶していたもので、殺害された上甲笑を除くこれら知人は本件の犯人が被告人であることを当初から一貫して明確に供述している。また事件当夜(三日午後一〇時ころ)、タクシーで被告人を高知県交バス中村営業所前から幡多郡大方町浮鞭の田城宅近くまで運んだ運転手や、事件直後、犯人が田城宅から立ち去るのを目撃した隣人等数名の捜査官らに対する供述によつても、犯人が被告人以外の者でないかと疑わせるような事跡は皆無である。さらに犯人は田城宅北側の道端辺におかれていた他人の自転車に乗つて走り去つたが、その自転車が事件より約四時間後に、被告人が立寄つていた山辺秀雄宅近辺に遺留されていた事実も犯行と被告人とを結びつける客観的な証拠と認められる。

所論は、事件当夜、被告人が着用していた衣服や靴から人血の付着が検出されず、また犯行に使用された鉄棒が被告人の勤務していた工場にあつたものとは認められないとして、被告人が犯人とは断定できないと主張する。なるほど、外套も含めて犯行当時、被告人が着用していた衣服、靴下、さらに靴からも人血の付着が検出されなかつたのは所論のとおりである。しかしながら、司法警察員の検証調書によつて、被害者が倒れていた現場には相当多量の血痕が残つていたものの、それから血痕の広さは大きなものでも幅四〇糎程度にすぎず、また被害者の診断書や死因鑑定書等によつて、右の血痕はすべて鈍体で頭部辺を殴打された被害者らの裂挫創から出血したもので、鋭利な刃物による大動脈等の切創とは異なり、受傷の血液が広く周辺へ飛散するとは限らないものと認められるから、被告人がこれらの血痕を踏まなかつたとか、被告人の衣服等に人血の付着が認められないことをもつて、犯人でない証拠とすることはできない。次に、所論の鉄棒は宮崎洋、小野陽三(但し昭和四四年一月一四日付の分)の司法警察員に対する各供述調書によつて、被告人が勤務していた国興産業月星工場に本件より二か月余り以前、約一〇日前後の間にわたりおかれていたスクラツプ片であり、同鉄棒に巻きつけてある茶色のビニールテープも同工場で使用しているもののと一致することが認められる。右鉄棒と事件後に月星工場から提出されたスクラツプ片とではクローム成分含有量等に差異があるとしても、月星工場では右両期間を通じて同一材質の鉄板を裁断していたわけでないことが認められるから、前記認定を左右しない。その他、岩本正治の司法警察員に対する供述調書等をも総合すると、本件鉄棒の入手携行についての原判決の認定にも誤認の疑いはない。

次に所論は、被告人には田城家の人達を殺害すべき動機が認められないと主張する。まず仁王頭幸美、柏康、岡本輝夫の警察官に対する各供述調書(岡本の分については添付のカルテ写し等を含む)、田城成子、田城松幸の捜査官に対する各供述調書、当裁判所の証人亀沢徳昭に対する尋問調書、受命裁判官の当審証人大屋成子に対する尋問調書等によると、被告人は中村高等学校に在学中の昭和三三年ころ、学友田城松幸の妹成子(当時中学生)と知り合つたが、その後、海上自衛隊に在職中の昭和四二年三月ころ、成子の誕生祝いにアルバムを送り、同年四月ころ同女に結婚申込みをにおわせた手紙を出したところ、判然と拒絶されたのみか文通も断わる旨の返事をされたのに、そのころ呉市方面から電話で友人の口添のもとに直接、同女に婚約方を懇望したり、同年六月ころには郷里の兄に頼んで、成子に会い意向を打診して貰つたりしたが不首尾に終わり、ノイローゼの挙句、精神分裂病にかかつて同年七月二六日、国立呉病院へ入院し翌四三年一月下旬まで治療を続けたこと(入院初期の昭和四二年八月二二日ころ、被告人は担当医師に対し「私は数年前から男は若くして結婚したら、仕事のうえで成長がとまつてしまうことに気付き、文通して交際していた女性にも冷たくあたるようになつた。相手の女性は私の気持を引き戻そうと努めたが駄目だつた」旨を供述し、田城成子への結婚話しが進展しなかつた苦悩と反対の心情を告げている)、次に被告人は昭和四二年春、手紙や電話のやりとりの中で田城成子から「自衛隊は嫌い」といわれ、さらに自衛隊を満期退職して間もない昭和四三年正月に一時帰省し、田城松幸を含む高校の同窓仲間数名と談笑中に、これらの親友から「自衛隊は憲法違反だ」といわれて憤慨し、その場は直ぐに治まつたものの、前夜には田城清明宅を訪ねて一泊させて貰つたばかりであつたのに、同日、呉へ帰るにあたつて松幸に対し「成ちやんに結婚を申込んだが断られたので、もう君の家へも行けなくなつた」旨をいい残して別れ、爾来、本件まで松幸や成子をも含めて田城家へ何らの音信もしなかつたことが認められる。そして事件当夜(昭和四四年一月三日)午後一〇時ころ、被告人は中村市内から大方町の田城清明宅へ赴く途中のタクシー内で「女にだまされた」とか「きつねにだまされた」等と独語し(岡本幸雄の司法巡査に対する供述調書)、さらに犯行の途中、田城宅玄関で同家の長女笑を撲殺した後、同家二階の居間をも見廻わつて松幸、成子らを捜し歩いたこと(田城成子、田城葉子の捜査官らに対する供述)が認められる。また被告人の性格は日頃おとなしい反面、意地をはり自己の考えに固執する点が目立つていたこと(田城松幸、亀沢徳昭、小野陽三、宮崎洋らの供述)をも考え合わせると、被告人が取調べの警察官に対し「田城松幸のような社会のがんである共産主義者は、この世からいなくなつた方がよいと思い、同人を殺すつもりで田城宅へ行つたが不在で、家人と話しているうちに、きついことをいわれ、急にむかつとなつてやつた」旨を述べている部分(記録三冊分七三七丁裏以下)は犯行の動機の一端について真実を語つたものと認められる。右の諸事実に徴すると、被告人は田城成子に結婚を断わられた不満と、自衛隊に好意をもたない同女やその兄松幸に対する反感から田城家の人達を憎悪し、本件犯行に及んだものと認めるのが相当である。したがつて犯行の動機についての原判決の認定にも誤認の廉はない。

二  控訴趣意第二点は、被告人の責任能力についての原判決の判断に法令適用の誤りがあると主張し、仮りに被告人が犯人であるとしても、当時、被告人は破瓜型の精神分裂病に罹患しており、心神喪失の状況であつたのにかかわらず、原判決が被告人の心神に著しい欠陥はなかつたと判断したのは事実を誤認した結果、刑事責任能力についての法令の解釈適用を誤つた違法があり、破棄を免れない、というのである。しかしながら、原審で取調べた関係証拠を総合すると、被告人には精神分裂病(破瓜型)の病歴があるとはいえ、右病症はすでに寛解していて、犯行時における被告人の心神状態に著しい欠陥や障害はなかつたものと認められ、当審における事実取調べの結果、とくに鑑定人市丸精一作成の鑑定書及び当裁判所の鑑定証人市丸精一に対する尋問調書によつて、右認定が一層裏付けられたものと認められる。

関係証拠によると、被告人は海上自衛隊衛生課で昭和四二年五月ころ軽度のノイローゼ、同年六月一四日、精神分裂病とそれぞれ診断され、投薬を受けたが好転せず、同年七月二六日、国立呉病院精神科へ入院し、八月上旬ころまで不眠症のほか、人に食われるかも知れないという妄想や、上司からの命令が聴こえる等という幻覚があつたが、これらの諸症状もさほど重症ではなく、以降、漸次軽快し、同年末から昭和四三年正月にかけて、病院から数日間の外泊を許されて帰郷した際には、高校時代の友人らを訪れて旧交をあたため、同年一月下旬に退院し(但し以降、同年一〇月末まで数回、通院して診察や投薬を受けている。なお入院中の昭和四二年一〇月、自衛隊を任期満了により退職)、国興産業に就職して、本件犯行より五日前まで約一年間稼働したが、その間、前記学校の旧友や職場の同僚らは被告人が精神病を煩つたことに全く気付かなかつたことが認められ、さらに本件前の数日間、被告人と接した両親や同胞らの供述を調査してみても、そのころ被告人の精神状態が異常であつたのではないかと疑わせるような事跡は見当らない。また本件犯罪の実行行為、及びそれに関連した前後の被告人の行動中、原判決が弁護人の主張に対する判断で説示している諸事項は当裁判所も正当として是認できるのであり、これは通常人の行動として評価できるものである。その他、犯行後、被告人が被害者宅近くにおかれていた他人の自転車を使つて、約四キロメートル中村市寄りの実姉宅まで戻り、姉夫婦らには犯行を感得されず就寝していたことや、捜査過程及び原審当審を通じて、被告人が犯行に使用した鉄棒の入手や携行を始め、犯行の具体的事実を殆んど供述しないことについても、被告人の精神状態に異常や欠陥を想定しなければ説明の困難なものとは認められない。

なお所論は、原判決が責任能力の判断中で、被告人が犯行中、田城清明宅の電話線を切断したと認定したのは誤認であると主張する。しかし、清藤経子の司法巡査に対する供述調書によつて、事件当夜(一月三日)午後一〇時三〇分ころと一一時すぎころの二回にわたり田城清明宅から若い女の声で、タクシーを注文する電話がかかつたことが認められるところ、田城成子、田城葉子の捜査官らに対する供述によつて、右二回目の電話をしてから約三〇分を経過して(岡村正幸の検察官に対する供述調書)、上甲笑が同家から被告人を種々説得して漸くタクシーに乗せて送り出した直後に、成子ら妹二人に「被告人からこつそり抜きとつてきた」と話しながら登山用ナイフをみせたことが認められるとはいえ、第二回の電話後、右登山用ナイフが被告人の不知の間に上甲笑の手に渡る以前に、被告人が同ナイフを使つて電話線を切断する時間的な余裕や機会は十分にあつたものと考えられる。さらに受命裁判官の当審証人大屋成子(旧姓田城)に対する尋問調書によつて、事件当日の午前九時ころ、成子が義兄上甲秋月あてに鳥取県大山の旅館不老園へ電話をかけた場所は中村市内の病院からであつて、自宅からではないことが認められることや、電話線の切断が発見された同日午前一〇時三〇分ころまでを通じて、被告人以外の者が右電話線を切断したのではないかと疑うべき事跡がないことに徴し、この点についての原判決の事実認定にも誤認の疑いはない。

そして、被告人には前記のとおり首肯するに足る犯行の動機が認められることをも総合すると、本件犯行時における被告人の心神状態は耗弱の程度にも達していなかつたとの原判決の判断は正当であり、事実誤認や法令の解釈適用を誤つた違法は存しない。

三  なお当裁判所は職権によつて本件の量刑につき記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して、再三再四の考慮を重ねてきた。被告人が犯行時、二六才余の若年であり、前科前歴なく、勤務会社等における行跡は良好であつたこと、及び昭和四二年春、田城成子からの手紙や電話での交際を通じて、通常人であれば何ら好意を示されたものでないことが容易に理解できた筈であるのに、そのころ精神疾患が生じていた被告人は相手が自己に好意を抱いていると受け取つたため、結婚の申込みを固く断わられたこと等に対する憤懣の情がより強まつたのではないかという疑があること等は被告人のために斟酌できる点である。しかしながら松幸をはじめ田城家の人達は高校卒業後も正月休み等に訪れる被告人を他の友人達と同じく歓待してきたのに、被告人は結婚の希望が遂げられなかつたとか、自衛隊の反対者というだけの理由で同家の人達を殺害すべく計画し、鉄棒や登山用ナイフを隠し持つて同家へ上りこみ、容易に帰ろうとしない被告人をなだめて送り出そうとした同家の長女笑や、同女から電話注文を受けてタクシーを寄せたにすぎない運転手をはじめ、正月休みの終る夜半、同家の一隅で枕を並べてねていたいたいけな幼少の姉妹三人や、笑から救援方を求められて同家へ出向いてきた隣人二名に対し、各頭部を阻つて鉄棒の乱打を浴びせ、うち二名を即死同様に、続いて三名を数日以内にそれぞれ死亡させ、危く生命をとりとめた他の二名もそれぞれ聴力や視力の一方を失なつたほか、言語障害等の後遺症にも苦しみ続けているのであつて、まことに非道かつ残虐の極みで、奪われた人命は五名の多きにのぼること、その他、犯行後における被告人の被害者らに対する心情を辿つてみても現在に至るまで格別の変化や推移は認められないこと等、諸般の情状を総合すると、死刑は最も冷厳な刑罰であり、その適用は慎重を期し過ぎるまでに考慮を重ねるべきであると思料するが、かかる本件の如き事件に原審が極刑を言渡したのは真にやむをえざるところであると考えられ、当裁判所が職権で、その量刑を動かし死一等でも減じうるような有利な情状は遂に認められなかつた。

四  よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、なお当審における訴訟費用の負担免除につき同法一八一条一項但書をも適用して、主文のとおり判決する。

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